桓武と神功
《対象読者》
日本書紀および日本の古代に興味のある人.
《概要》
桓武天皇と神功皇后に関する謎について考えてみました.
《桓武天皇》
謎1:
桓武天皇は天智系であるのにも拘らず、漢風諡号に天武の武が入っているのは、何故でしょうか.
考察1:
まず、天武天皇から光仁天皇までの約1世紀にわたる社会状況を考えてみます.
壬申の乱以後、皇統は天武系に移りますが、公家の支持を得ることが出来なかったので、天武天皇は皇親政治を行なうしかありませんでした.
その天武天皇が崩御した後、天智天皇側だった藤原不比等は持統天皇に近づき、官人としてのチャンスを掴みました.
持統天皇が文武天皇の即位を望んでいたので、それを不比等はサポートしました.
持統天皇が崩御した後、元明天皇と元正天皇は膳夫王が即位しても構わないと思っていましたが、不比等は自分の孫にあたる聖武天皇の即位を望んでいました.
不比等没後に政権を執った長屋王は、自分の息子の膳夫王の即位を望んでいました.
しかし聖武天皇と藤原四兄弟は、隙を突いて長屋王・膳夫王の排除に成功しました.
藤原四兄弟没後、光明皇后の同母兄の橘諸兄が無難に聖武・孝謙政権の運営を行ない、波風も立たず日々が過ぎていきました. その中、舎人親王系と手を組んだ藤原仲麻呂(恵美押勝)は淡路廃帝を担いで政権を執り、私利私欲に走りました. それに対し、反仲麻呂派のグループが称徳天皇を担いで、仲麻呂の排除に成功しました. しかし、その後の称徳政権は道鏡により迷走しました.
称徳天皇が崩御した後、藤原永手が道鏡を排除しました.さらに光仁天皇を中継ぎとして、井上内親王を通して天武朝を女系で他戸親王へ伝えようとしました.しかし永手はすぐに没してしまいました.
これをチャンス到来と見た藤原良継と百川は、井上内親王と他戸親王を排除しました.そして桓武天皇を担いで政権を執りました.
これで、皇統は天武系から天智系へ完全にシフトしたわけです.つまり桓武天皇は、天武系の血統を根絶やしにした天皇なのです.
ここで、『桓』の意味を角川漢和中辞典で調べてみると、「棺を墓穴におろすために四すみに立てる柱」となっています.
以上の事から、天武系の皇族を「棺桶に入れて墓に埋めて」地上から排除したことを示すために、桓と武を組み合わせて『桓武』にしたと考察します.
《図1 天智・天武朝 略図》
《図2 参考略図》
《図3 奈良時代 略年表》
《神功皇后》
謎2:
日本書紀は神功皇后紀を、なぜ他の天皇紀と同列に扱っているのでしょうか.
考察2:
まず、崇神天皇の皇統について考えてみます.
孝元天皇紀に於いて、孝元7年から22年の間に伊香色謎命は彦太忍信命を産んでいます. 孝元57年に孝元天皇は崩御しています.開化天皇紀に於いて、開化6年に伊香色謎命は再嫁して崇神天皇を産んでいます.
仮に15歳で伊香色謎命が孝元7年に彦太忍信命を産んだとすると、崇神天皇を産んだのは71歳となります. 彦太忍信命を産んだのが孝元22年だったとしても、崇神天皇を産んだのは56歳の時となります.
このことから、伊香色謎命が開化天皇に再嫁して崇神天皇を産んだと解するよりも、崇神天皇は開化天皇の猶子となったと解するのが自然だと思います.
次に、応神天皇の出産時の事について考えてみます.
神功皇后紀に於いて、仲哀9年12月14日の条に応神天皇が産まれるとあります. 今も昔も、所謂『妊娠期間』は十月十日だと思います.すると12月14日の十月十日前は2月5日になります.普通に考えて人々は、この日に妊娠したはずだと考えるでしょう.
そこで、仲哀天皇紀をみますと、仲哀9年2月5日の条に、仲哀天皇は病気になり翌日には崩御したとあります. その時、天皇の喪を隠した神功皇后と一緒にいたのは武内宿禰です.
日本書紀の制作者は何かを伝える為に、応神天皇が仲哀天皇崩御後十月十日経ってから産まれたとワザワザ記述したのでしょう.
また、神功皇后紀に於いて、仲哀9年9月5日の条に、臨月であるが石を腰に挟んで出産を遅らす由の記述があります.
実際に生まれたのは12月なので、本当に9月が臨月ならば妊娠期間は13ヶ月あったことになります.今でも昔でも、それは不自然です. 仮に9月が臨月とした場合の十月十日前を考えると、仲哀8年11月に妊娠していたことになるはずです.
そこで仲哀天皇記をみると仲哀8年9月5日の条の後半に、日本書紀の制作者は神功皇后が妊娠していることの記述はしていますがワザワザ神託と称しています.
以上のことから日本書紀の制作者の公式見解は、仲哀天皇崩御後十月十日が過ぎたが、確かに神功皇后は仲哀天皇の子を妊娠していた.仲哀9年9月には臨月であったが、12月14日の出産になったのは無理矢理3ヶ月遅らせたからなのだ.応神天皇の父親は、絶対に仲哀天皇である.
しかし隠れた意味として、実際の出産日12月14日の十月十日前の2月5日には仲哀天皇は病気であり、その翌日には崩御しているから、その時に神功皇后と一緒にいた武内宿禰が応神天皇の実父であると、暗に示したのだと思います.
更に、応神天皇紀にある敦賀の気飯大神との名前の交換について考えてみます.
気飯大神は、仲哀天皇紀の仲哀2年2月6日の条で言及している気飯宮の暗喩と解すると、仲哀天皇を示していると思います.
つまり、崩御した仲哀天皇を気飯大神と呼んだということです.その気飯大神と名を交換したということは、応神天皇が崇神・仲哀朝へ猶子に入ったということを示していると思います.
また神功皇后紀には神功皇后は開化天皇4世の孫とあり、そして孝元天皇紀には武内宿禰は孝元天皇3世の孫とあるので、神功皇后と武内宿禰は孝元・開化朝に連なっています.
以上のことから、神功皇后が崇神・仲哀朝を排除して孝元・開化朝を女系で応神天皇へ伝えたので、日本書紀では神功皇后を他の天皇と同列に扱ったのだと考察します.
神功皇后紀は皇統が途中で入れ替ったことを後世に伝えるために挿入されたのだと思います.
(上述の表記『気飯』の『気』は、フォントがないので代用したものです.正しくは竹冠に司と書いて『け』です.)
《図4 孝元・開化朝 略図》
《図5 参考略図》
《図6 参考略図》
《図7 参考略図》
《図8 参考略図》
《図9 参考略図》
―― あとがき ――
桓武と神功
著者:茜町春彦
投稿サイト「パブー」で公開した作品です.こちらに移植しました.
初出:
「リトルプレス小豆A1」2013年8月26日発行
話は変わりますが、渟中倉太珠敷天皇の漢風諡号『敏達』の意味は『するすると産まれる』であるにもかかわらず、なぜ母親の名前が『石姫』なのかと云うことについては、別途機会があれば考えてみたいと思います.