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武蔵七党の甘糟氏(ベータ版)

《対象読者》
武蔵七党に関心のある人.

《概要》
平安時代武蔵国に居住していた甘糟氏は、鎌倉時代になると他の土地に移住していきました.その時、甘糟氏がどのような経路を辿って移動していったのか、推理してみました.

《参考系図

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《武蔵七党の甘糟氏》
平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国では、武蔵七党と呼ばれる武士団が活動していました.

武蔵七党のひとつに猪股党があります.

その猪股党のなかに、猪股家基と云う人物がいました.

この猪股家基が、武蔵国那珂郡甘糟の地へ移り住み、そして地名を苗字にして甘糟七郎と名乗ったのが、甘糟氏の始めであるようです.

そして、この甘糟七郎には、甘糟野次広忠と云う子息がいました.野次とは、小野氏の次郎の意味だと思います.

また、甘糟野次広忠には、他にも兄弟がいたのだろうと推測します.

鎌倉幕府と甘糟氏》
鎌倉幕府の正史を著わした吾妻鏡を読みますと、元歴元年8月18日の条に、甘糟野次広忠の名前が見えます.

また、文治元年10月24日の条には、随兵として甘糟野次の名前があります.これは広忠のことだと思います

このことから、甘糟野次広忠は鎌倉に移り住んで、幕府の一員になった事が分かります.

和田義盛と甘糟氏》
甘糟野次広忠が鎌倉幕府の一員になれた理由を推理してみます.

鎌倉幕府創立時の重鎮の一人に和田義盛がいます.

この和田義盛の妻が、横山党の出身でありました.

この横山党と猪股党は、同族の武士団でした.

猪股党である甘糟野次広忠は、横山党と同族の縁を伝って和田義盛の郎党になったと思います.

そして広忠は、義盛の郎党として活動する幕府の一員だったのだろうと推理します.

また、甘糟七郎の嫡男は武蔵国に残ったと思いますが、他の兄弟は甘糟野次広忠と共に相模国鎌倉郡に移り住んだのだろうと思います.そして、和田氏の勢力拡大にともない、郎党となった甘糟氏の子孫も勢力を拡大していったのだろうと思います.

越後国と甘糟氏》
越後国の豪族に、城氏がいました.

この城氏は、鎌倉幕府を倒そうとしましたが、逆に討たれて没落しました.

城氏が滅びて空白地帯となった越後国に、鎌倉幕府御家人が地頭に補任されて入部しました.その中に和田氏もいました.

そのとき、和田氏の郎党として相模国鎌倉郡から越後国へ移り住んだ甘糟氏もいただろうと推理します.

《和田合戦と甘糟氏》
西暦1213年に鎌倉幕府内で戦闘が起きました.和田氏と北条氏の間で起きた戦闘で、和田合戦と呼ばれるものです.

この時、和田氏は戦いに負けて滅亡しました.

しかし、生き残った郎党もいたと思います.そのなかに甘糟氏もいたと思います.

生き残った甘糟氏は、合戦に勝利した側の北条氏や新田氏などの武将に近づいて、何とか彼等の郎党に加えてもらい、幕府での立場を維持したと推理します.

新田義貞の挙兵》
鎌倉時代末期、各地の武士は幕府の執権である北条氏の専横に不満を持っていました.

西暦1333年になると、新田義貞が北条氏に反旗を翻しました.

義貞の下には、北条氏に不満を持っていた数十万騎の武士が集まり、鎌倉へ攻めて行きました.

越後国や新田荘にいただろうと思われる甘糟氏の中にも、新田側についた者がいたと思います.

そして、鎌倉郡までやって来て、討幕後も帰らずに、そのまま鎌倉周辺に居ついた甘糟氏もいたと推理します.

 

《参考地図》

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《小野姓と平姓と源姓》
元来、甘糟氏の姓は小野姓だと思いますが、その時々の状況により、姓を変えたと思います.

たとえば、北条氏の郎党になった甘糟氏は、処世術として、平姓を名乗ったと推理します.新田氏の郎党になった甘糟氏は、きっと源姓を名乗る方が有利だと判断したでしょう.

《甘糟と甘粕》
表記の仕方に甘糟と甘粕の2種類があります.

粕は、糟の単なる略字だろうと思います.略字として使用しているうちに固定化しただけで、同系統と判断しても良いのではないかと思っています.
(了)


―― あとがき ――
武蔵七党の甘糟氏(ベータ版)
著者:茜町春彦

投稿サイト「パブー」で公開した作品を大幅に加筆修正しました.
初出:
「リトルプレス胡麻01」2016年6月18日発行